百合とカメラ目線の確執
百合。
それはときに女性同士の淡い恋心であり、
ときに他愛のない日常である。
ときにたぎるような情欲にまみれた女性同士の戦いであり、
ときにふと旧友とのやりとりを懐かしむ女性の胸の内である。
百合。
二人の女性が手を繋いで歩いていればそれはもれなく百合だし、怒っている上司と怒られている部下がいればもうそれは百合。
デパートの非常階段でだべっている女子高生二人組なんかは百合を通り越してすでに同棲済み。
仲のいいアイドルが(一般的な解釈として)過剰にスキンシップしている姿をカメラにさらしていると、百合という熱に浮かされつつもビジネス百合という奈落よりも更に深い地獄に堕ちてしまった経験豊富な猛者たちの「あれはビジネスだろ」だなんて冷めた声が聞こえてきそうだ。
しかし!
彼女たちの私生活にこのビジネス百合が影響していないとは言えないのだ!
カメラの前で計ったスキンシップが収録終わりにまで尾を引き、いつの間にか二人は親密な中に、みたいな関係になってるかもしれないじゃないか!
あるいは仲良くするメンバーに知らず知らず嫉妬していた自分に気づいて、みたいなことがあるかもしれないじゃないか!
こんなことを書いていると僕がしょっちゅう他人を見て百合妄想している変態のように思われる。
弁明しておこう。
百合好きはみんなしてる。
無論、百合方程式は三次元ばかりではなく、二次元でも成り立つ。
百合。
王道の女子高生百合、近年盛り上がっている社会人百合、変化球と思ったら意外とみんな大好き人妻百合。
さらにはその関係性でも様々に分類できる。
女子高生百合でいえば先輩と後輩、同級生同士、それから先生と生徒。さらにはお嬢様然とした麗しの先輩や同級生に憧れる後輩などなど。
百合の可能性はひたすらに無限だ。百なんじゃか数えきれないのに百合。ウケる。
ちょっと話が長くなった。
閑話休題。
さて。みなさんが百合漫画を買ったとき、ふと疑問に思うことはないだろうか。
百合漫画じゃなくてもいい。だらだらにだらけた休日にネットの荒波をサーフィンしていてひょっこり顔を出す百合画像や、通販ショップで見かけるこれ書店とかに全然置いてねえじゃんって感じの百合小説の表紙だとかを考えてみて欲しい。
とにかく、たいていそこには、二人の女の子が描かれている。
当然だ。
百合なのだから。
これは百合ですよーとアピールするのに男が抱き合っている画像を持ってどうする。腐を兼任する一部の人間が飛びつくだけである。そして僕は腐を兼任していいない。
百合=女性同士。
これは自明の理である。
でも、待てよと。
ちょっとおかしくねえかと。
なんで、こっち向いてんの?
だって、そこにいるのは二人だけなんじゃないの?
どうして、見つめ合ってないの?
これはアイドルのカメラ目線とは訳が違う。
だって彼女たちは、それが仕事だ。
百合百合するのが仕事なのではなく、カメラ(=視聴者、読者)に向かってアピールするのが仕事なのだ。だから、彼女たちはカメラに向かってアピールする。そうしてファンに熱意を抱かせ、愛着をもたせ、それが少なからずマネーへと影響するのは否定できない。
でも私生活ではもしかしたら云々。
つまり、百合とカメラ目線は、避けられない問題なのだ。
避けられない問題に直面したとき、人は二通りにわけられる。
考えるか、逃げるか。
普段なら即座に尻尾を巻いて逃げる僕は、考えた。百合から逃げることなんて出来るはずがないから。僕を癒してくれるのは百合だけだから……。
というわけで、百合のカメラ目線について僕なりの解釈を付け、以下の3パターンに分けた。
-
カメラ目線である
- もう一人いるのである
- 鏡越しである
詳しく解説していこう。
1.カメラ目線である
単純明快。
カメラに写るために彼女たちはポーズをして、こちらを見ているのだ。
そう認識すれば、彼女たちの目線がこちらを向いていることにも納得できる。
だが問題は、そのカメラを持つのが誰なんだよという疑問が出て来ることだ。
雑誌の撮影という感覚なのか、あるいは友人同士のお遊びなのか。
その友人との関係性はどうなっているのか。
悩みぬくと、当然、次の考えに至る。
2.もう一人いるのである
2Pではなく3Pである。
ちょっと表現が悪かった。
彼女たちは二人のカップルなのではなく、三人のカップルなのである。二人がイチャコラしているのを見ているもう一人がいるわけだ。その一人の目線で、僕たちはカップルを眺めている。カメラの存在はあっても無くても良いよ。
いやー、ありがたい。そこに現れるのは何も意識しない通常通りの二人であって、そんな状況を僕たち部外者が覗ける道理などまったくないのだ。そんなことをすれば警察沙汰である。
だがこれにも問題点はある。
そもそも、三人目って誰なんだよ、である。
だって、この三人目は僕が作り出した人間なのだ。本編に出てくるはずもなく、まさかモブを借りてくることもできない。だって、百合漫画or小説で表紙の二人と絡んでいるのに全く名前が出てこないはずがないのだから。
先生と生徒の秘め事を、果たして無関係の誰が覗けるというのか。
3.鏡越しである
これを僕は一押しする。
そもそも、彼女たちが見ているのはカメラではない。
かといって僕が作り出した三人目でもない。
鏡に映る自分たちの姿なのだ。
攻められて照れている先輩を鏡越しにうっとり眺める後輩。
授業中はまっすぐ見つめてくれるのにいざ二人きりになると目線をそらしちゃう先生の姿を鏡越しに見つめる生徒。
いけないことだと分かっていながら人妻に手を出してベッドインするも思った以上の快楽に人妻がもっともっととねだってきてこれ以上はいけないと言い訳しようかそれとも快楽の園へ二人っきりで旅立ってしまおうか悩んでいる十代の少女が泳がせた視線の先の鏡。
彼女たちの目に映るのは、鏡という第三者の目を通した、自分たちの姿。
そこに彼女たちの日常はあれど、決して日頃に肉眼で眺める愛する人の姿ではないのだ。
彼女たちもハッピー。僕もハッピー。
さて。
百合のカメラ目線への僕なりの対処法を披露した。
でもそもそも、どうして百合がカメラ目線であることを、こんなにも問題視するのだろう。
だって、放っておけばいいじゃないか。
表紙は表紙なんだからと割り切ればいい。
パッケージの写真と中身が全然違うとかはよくある話だし、広告と似ても似つかない実物なんてのも良く見る。
許せないとまではいかないけれど、違和感は残ってしまう。
かつてはカメラ目線で百合を謳っている薄い本を買ってみたらなんと後半になって名も知らぬ男が混ざってきて涙を飲んだという悲しい事件が多発していたらしいし。
恐らくカメラ目線であることを問題視しない人もいるだろう。
でも僕はする。
なぜならば。
自意識過剰
だから。
ゆりんゆりんしている彼女たちに見られることによって、読者である僕は、「僕自身」という存在を意識する。女性であれ男性であれ、画像の二人に見られる(=認識される)ことによって、彼女達二人だけだった世界に、読者という存在が実在してしまうのである。
これが厄介なのだ。
なぜなら、僕が見たいのは、二人のイチャコラだから。お互いがお互いを想っていて、喧嘩したり、チュッチュしたり、気になるあの子が他の女の子に話しかけていてなんだかモヤモヤする気持ちに襲われたり、あるいは自分の想いを正直にぶつけたり。そういう、女の子同士に起こりうるあらゆる感情の嵐を、僕は楽しみたいのだ。
でも、そこに「僕自身」という存在が邪魔をする。
本来いないはずの僕を、僕が認識してしまう。
彼女達がこっちを見ている→ここに僕が存在している→邪魔!
この理屈を、この違和感を、この嫌悪感を、どうやっても覆せないのだ。
表紙の彼女達がカメラ目線だったとして、そのさきに僕たち読者がいるとして、「ああこういう表紙なんだな」とすっぱり納得すれば良いのだ。
でもできない。
だって、彼女達が見てしまっている時点で、僕が百合の世界に入り込んでしまっているのだから。
自分を忘れたくて彼女たちの世界に没頭したいのに、没頭した先の彼女たちが僕の存在を強く押し付けてくる。
忘れたい→でもふと思い出しちゃう→忘れられない!
と、まるで一生に一度の恋をした20代後半のOLのようなループからも抜け出せない!
結果、カメラ目線の百合を見るたびに、僕は自己認識と百合愛の間をゾンビのようにさまようことになる。
だからといって、カメラ目線の百合を廃絶したいわけではない。
百合は百合というだけで素晴らしいのだから。
みんなも落ちよう!
百合という底なし沼に!
それから百合な絵を描くときはちょっとだけカメラ目線になってないかどうか意識して欲しい!